YUMEZAKI9 堀拓海の初ブログ
堀 拓海の生い立ち
こんにちは。英語で言ったらHello。イタリア語で言ったら、、分かりません。
堀拓海です。
僕には父が1人、母が1人、兄が1人、姉が2人います。
家族全員がバスケットボールをしていて、母がミニバスのコーチをしていたのもあり、生まれた時からバスケットがそばにある生活でした。(ずっと体育館のステージで遊んだり寝たりしてたらしいです。)
(後ろにいるのが3個上の姉)
(母が小林高校の寮母さんをしていたので、よく遊んでもらってました。僕を投げてキャッチボールしてたらしいです)
そんなこんなで、僕も当然のようにバスケットを始めるわけですが、本当にバスケットが大好きでずっとバスケットしかしてませんでした。そのせいで他のスポーツが全くできませんでした(笑)(バットの握り方も小5の時に初めて知りました…)
僕は小さい頃から大口を叩く子で、目標は?と聞かれたら「全国制覇」と言っていました。(完全にスラムダンクの影響です(笑))
そうして大好きなバスケットをたくさんして、大口叩いて練習したおかげで、小学校、中学校、共に県大会で優勝し、県1位になることができました。(全国制覇はできませんでしたが…。)
と言われ、本当に逃げようかと思いました。たくさん泣きました。
でも、先輩たちから支え、周りの仲間からの励まし、「ここで辞めたら負けだ」という気持ち、そして何より、大好きなバスケットを辞めたらぜったいに後悔すると思い、続けることができました。
そして、高校3年の最後の総体で、1度も勝てなかった延岡学園に勝ち、県で2位になることができました。
高校3年間はバスケットだらけの毎日で、本当にキツかったですが、その倍楽しいことばかりでした。バスケット以外の事もたくさん学んで、大きく成長できました。
ゴミが落ちていたら拾う。靴は並べる。など、誰でもできる事だけれど、それをすれば何か良いことがある、と信じてやっていました。それは今でも続けています。(そのおかげで高校の頃の自転車のカゴの中にはいつもゴミが入ってました(笑))

これでバスケットの話はとりあえずおしまい!長すぎてすみません。
はい、次は夢の話をします。
僕は小さい頃から、プロバスケット選手になる!と言っていました。やっぱり大口叩いちゃう。
しかしその夢も、高校に入って全国のレベルの高さを痛感し、自分の実力を見た時にこれは厳しいと思い、バスケット選手になると言う夢をやめました。
んーどうしよう。なりたいものはたくさんあるけど、これ!って言うものはないな。就職するとしても工業系の仕事は一生続けたくないし。だからと言ってお金のかかる大学に行くのもな、と考えてるところに、今の大学、産経大のバスケットの先生が部活中に訪れ、特待生として学費全額免除で取ってあげるよ、と話してくれました。え、お金かからずに大学行けるならとりあえず大学行こうかな。と、パッと進学を決めました。こうして僕は産経大に行くことになりました。
さて、最初にも言ったように僕の夢は俳優になることなんですが、どうしてその夢を抱いたか。
僕のやりたいことの中に、テレビに出てみたいというのがありました。そんな時にLDHのVBA4というボーカルのオーデイションがあり、それに僕の幼馴染で中学までずっと一緒にバスケットをしてきた友達が挑戦していました。その友達は、1次審査、2次審査と、どんどん合格していき、遂には合格して新しいLDHグループのボーカルになりました。(今ではデビュー1年目で全国ライブツアーをする程に大きくなっています。)
その姿を見て、僕も芸能界に入りたいと思うようになりました。他にもいくつか理由はありますが、1番の大きなきっかけはこれです。
続いて大学生活の話。
無事産経大に入学した僕はバスケットとバイトと学校の両立を必死で頑張ってました。特に大きな出来事もなく半年が経ったのですが、ある時携帯の広告でオーディションの文字を見つけ、すぐに応募しました。結果は合格しました。でもスクールに入る入学金や毎月かかる交通費高かったのと、学校に行きながらはキツイということで、すごく悩みましたが、諦めました。
そして2年の夏にYUMEZAKIと出会います。
バスケ部の先輩であり、YUMEZAKIモデルでもある、篤さんと琴乃さんが拓海も出たら?と言ってくれて、もともと少し興味はあったので、すぐに出るっていって話をさせてもらい、出ることになりました。
とは言っても、YUMEZAKIは行ったことも見たこともなかったので、本当に右も左も前も後ろも分からない所からのスタートでした。それでも先輩モデルの方々がたくさん教えてくれて、なんとか本番に堂々と歩くことができました。
結果は予選敗退。めちゃめちゃ悔しくてめちゃめちゃ泣きました。でもその舞台裏ですぐに、次は絶対グランプリとってリベンジしてやる。と言いました。
初めてのYUMEZAKIが終わった次の日から、猛特訓しました。毎日曲を探して、毎日先輩たちの動画を見て、毎日アパートの駐車場で練習しました。毎日YUMEZAKIのことを考えてました。
そして3月になり、2回目の挑戦。
僕はグランプリを取ることができました。名前を呼ばれた時は、やっと取れた。良かった〜。とホッとしました。そして今までのことを思い出し、少し涙が出ました。本当に本当に嬉しかったです。
でもここで止まってしまってはダメだと思い、次の挑戦をしました。
「ジュノンボーイコンテスト」です。
まずは書類を送るのですが、送って2週間後にも通知が来なかったので、落ちたかなーと思っていたら、その1週間後に、ポストに書類が届き、中を開けると、1次審査通過と書いてありました。おおー!よっしゃ!!と家の中で1人で叫びました(笑)全国約2万人の中の1000人に入ったらしいです。
そして2次審査。場所は東京で、集団面接でした。
しかし、結果は不合格。
やっぱり人生甘くないなと思いました。
でもそこで終わることなく、2次審査に落ちた人のための敗者復活制度がありました。それで僕はたくさんの周りの人達の協力もあり、最後の40人まで残ることができました。結果的にはダメでしたが、た周りの人達に応援されて、絶対にこの夢を叶えて、みんなに恩返ししたい。という気持ちが強くなりました。
僕を見かけたら、声をかけてくれて、ジュノンのやつしてたよー!お疲れ様!と言ってくれることがたくさんあって、本当に沢山の人が応援してくれていて、めちゃめちゃ嬉しかったです。あの時は本当に本当にありがとうございました!!
それから、ブライダルのCMにでたり、えれこっちゃ宮崎のミスターコンでグランプリを取ったりと、活動を続けていくのでが、新たな目標を探していました。
YUMEZAKIを2連覇したいと思い始め、宣言しました。
宣言した時は、よっしゃ!やってやる!という気持ちで意気込んでたんですが、練習していくうちに、壁にぶち当たり全然うまくいかなくなり、悩みまくりました。それでもなんとか仕上げて、本番を迎えました。
予選を終えて、結果発表前、僕は結果を聞くのが怖くて怖くて、裏で震えて泣いていました。それくらいプレッシャーがあって、恐怖でした。結果は、、、
予選敗退。
僕の中で全てが崩れていきました。前回グランプリとった奴が、予選落ち。ダサすぎる。自信なんて1ミリも無くなりました。全てを失った気がして、1週間程立ち直れませんでした。そのくらい悔しくて悔しくて仕方がなかったです。
それでもなんとか周りの人に支えられ立ち直ることができたのですが、1番の大きな支えは、
「母」です。
母はバスケットの試合には毎回きてビデオを撮ってくれて、差し入れを持ってきてくれます。YUMEZAKIにも僕が出た3回全部来てくれています。そして僕の夢も、心配しつつも応援してくれています。そんな母から、
「悩んだこと、悔しかったことが、自分の身になるんだから。まあ、思いっきり泣いて、また笑って立ち上がれ」
と言われました。シンプルな言葉なのに、すごく心に響きました。そして僕は絶対に母に恩返ししてやる。という強い気持ちになり、立ち直ることができました。
(結構母に似てると言われます。)
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